日本人と将棋第二章


日本人と将棋

〜ゲームと人間の関係をめぐる一考察〜


第二章 将棋の歴史

(1)現行将棋の完成

 第一章で述べたように、古代インドのチャトランガを起源とする将棋は、日本において長年の歴史の中で独自の発展を遂げ、独自の特性を持つ存在となっている。こうした独自の特徴を持つようになったのは「駒の再使用ルール」によるところが大きい。この「駒の再使用ルール」を含む現行の将棋はどういった経緯で完成したのだろうか。まずその点について述べていこう。

将棋の伝来の時期は不明確であるが、11世紀には将棋が存在していたことが確認されている1。また、その駒はすでに現行の五角形であって、駒の名称も玉将、金将、銀将、桂馬、歩兵の五種類が確認されている2。すなわち、平安時代にはすでに将棋が日本に存在していたわけである。また、駒の形や名称などに日本において改良されたあとがあり、改良に要した時間も考えると11世紀よりかなり以前に将棋は日本に伝来していたと考えられる。

  また、1120年代の終わりごろに成立したとされる『二中歴』には、「将棋」と「大将棋」の二つが紹介されており、このうち「将棋」の方は現行のものに近く、9×9の盤を用い、駒は玉将、金将、銀将、桂馬、香車、歩兵の6種類で駒の数は36枚であった3。現行の飛車と角行がなく駒の数は36枚で、持ち駒は不使用や玉将だけになると負けになるといったルール以外は、現在の将棋とほぼ同様であったと推測される4。また、「大将棋」の方は、「将棋」より大きな13×13の盤で遊ぶもので、駒の種類は13種類で「将棋」の6種類の駒の他に奔車、飛龍、猛虎、横行、鉄将、銅将、注人の7種類の駒があり、合計の枚数は68枚と「将棋」より多く、伝来した将棋の原型をもとに日本人が改良して作り出したゲームであったと考えられ、このことは、日本人による独自の改良の歴史が始まったことを意味している5

 このような「大将棋」が生まれたのは、「駒の再使用ルール」のない「将棋」のもとでは、引き分けが多くなり、面白味にかけたことが背景にあると考えられる。すなわち、駒数を多く複雑にすることでゲームとしての複雑性を確保したと考えられる。実際、この平安時代の「大将棋」に始まって、様々な形の将棋が考案されたようであり、小将棋、中将棋、大将棋、大大将棋、摩訶大大将棋、泰将棋等6の将棋があったとの記録もある7。平安時代の「大将棋」と「将棋」が改良されて、小将棋・中将棋・大将棋等の各種の将棋へと進化していったと考えられる。小将棋は、現行の将棋のルーツであり、平安時代の「将棋」が発展したものと考えられ、より規模の大きい中将棋・大将棋等と区別するため、「小将棋」と呼ばれていたようである8。これら各種の将棋のうち、大型のものは盤の大きさ駒の種類や数があまりに多く複雑で、中将棋を除いてあまり盛んに遊ばれなかった9。中将棋は、1350年頃には登場していたと推測されるもので、中世以降盛んに遊ばれ、第二次世界大戦前までは多くの愛好者がいた10。むしろ当時においては、中将棋の方が小将棋よりも盛んだったようで、記録にも残っている11。おそらく、「駒の再使用ルール」がない段階での小将棋は、上達するとあまり面白くなかったため、中将棋の方が人気があったのであろう12

 では、現行の将棋はどのようにして完成したのだろうか。現行の将棋と平安時代の「将棋」との間にある違いは持ち駒を前者が使えるのに対し、後者が使えないことと後者には飛車と角行が存在しないことであり13、この平安時代の「将棋」に飛車と角行が加わり、駒の再使用ルールが導入されて、現行の将棋となったのである。飛車と角行は、平安時代の「大将棋」には存在せず、後に作られた中将棋・大将棋に初めて登場する駒である14。したがって、それ以降に将棋に飛車と角行が加わったことになる。しかし、記録には、現行のものに酔象という駒を加えた駒数42枚のものやさらに猛豹という駒を敵味方に2枚ずつ加えた駒数46枚のものがあったとされており15、平安時代の「将棋」に飛車と角行が加わって、直接現行の将棋となったのではないようである16

 この過程について、大内延介の意見をもとにすると次のように推測できる17。36枚の平安時代の「将棋」の系列のもの(小将棋)には、飛車角のような強い動きの駒がなかったためゲームとして単純であった。そのため、上流階級の人々はより複雑で面白い中将棋の方を愛好していたが、庶民には駒数の多い中将棋は高価で保有するのが困難であったため、庶民の中では小将棋の方が親しまれていた。しかし、小将棋も次第にあきられ、より面白いものにするため、新たに開発された中将棋や大将棋等の駒から飛車や角行等いくつかの駒が取り入れられた結果、駒数を増やした何パターンかの将棋が生まれた。そして、試行錯誤の結果、飛車と角行以外のものは取り除かれ、いったん増えた駒数が減っていき、まず42枚になり、そして、現行の40枚のものになった。しかし、それでは、不十分であったため誰かが「駒の再使用ルール」を考え出し、それに付け加わって現行の将棋が完成したと考えられるのである。そして、その結果、小将棋は中将棋をしのぐ面白さを持つゲームとなったといえるのである。一章で述べたとおり、この駒の再使用ルールは、日本の将棋を特徴づける非常に重要な要素であり、現行将棋の完成に至る過程においても大きな意味を持っていると言えるだろう。では、この駒の再使用ルールが生まれたのはどういった背景があるのだろうか。この点に関して、大内は、「南北朝時代(1336−92年)頃の社会構造の変化、武家階級の意識の変化がポイントだと思われる。18」としている。すなわち、当時の武士にとって、主君を変えることは当たり前であったし、また、主君の敗残兵を味方に加えるのが普通であった19。この傾向は、戦国時代により顕著になっていったわけで、駒の再使用ルールの概念が登場したのは、ごく自然なことであると考えられる20

 そして、一章で述べたように、日本の将棋の駒の形が偶然にも再使用ルールを導入できる形だったため、「駒の再使用ルール」のアイディアを実現することが可能になったのである。そして、それが実現したのは、そのルールがゲームとしての可能性を広げ、ゲームとしての面白さを高めるものであったからだと考えられる。すなわち、人々のより面白いものを求める欲求とそれに伴う創意工夫が偶然と重なって、新たな発展を生むこととなり、現行の将棋が完成したといえよう。

(2)将棋の社会史

 では、こうして完成した将棋は人々にどのように親しまれてきたのだろうか。将棋は、平安時代頃からその存在を示す記録が登場しており、その時代から親しまれていたといえる21。ただし、当時においては、囲碁や双六などのゲームの方が一般的であって、将棋は新興の遊びであったと考えられる22。その後、15世紀に入って、その将棋を指したという記録が、他の囲碁や双六で遊んだという記録と並んで貴族の日記に登場するようになる23。一部の公卿の間には熱烈に愛好されていたようで、日記の中に頻繁に登場している24。そして、16世紀にかけてこうした公卿と付き合いのあった僧侶や武士の間へと広まり、さらに町衆へと広がりを見せていった25。この時期において、貴族たちが愛好していた将棋は、主に中将棋の方であり、小将棋(現行将棋の原型)のほうも遊ばれていたもののその頻度は少なく、貴族達にとって、将棋といった場合には、中将棋のことを指していた26

 その後、将棋は、さらに広まったいき、16世紀後半には、愛好家である公卿や商人などが集まって、対局したり見物したりする碁・将棋の会が頻繁に開かれていたようである27。こうした会には囲碁を専門にする碁打衆と並んで、将棋指衆と呼ばれる専門の指し手が招かれ、その技量を披露していた28。そんな愛好家達の一人に徳川家康がおり、彼は上洛するたびに、碁や将棋の会を開催していた29。そうした碁・将棋の会に招かれていた将棋指衆の一人が初代の大橋宗桂であり30、家康が江戸幕府を開いた後に彼は扶持を与えられ、以降、将棋が芸能の一つとして認知されるようになった31。そして、その後、一代限りの扶持ではなく世襲できる家禄が与えられるようになり、寺社奉行の管轄下に正式に将棋の家元制度が発足することになった32

 家元家の祖である宗桂は中将棋よりも小将棋の方を専門にしていたために、以降、将棋と言えば、小将棋の方が主流となった33。江戸時代に入っても中将棋は一部の人々に親しまれたが次第に愛好者の数は減っていった34。小将棋が主流となったことは大きく、中将棋よりも駒の数も少なく平易であり、なおかつ安価で製造できたため普及には好都合だったといえる35。中将棋ではなく小将棋を公的なものとした理由として考えられるのは、家康自身が小将棋の方を愛好していたことと貴族の中で中将棋が盛んだったことに対抗する政治的意図の二つが考えられる36。また、公卿や僧侶の間では中将棋が主流であったため、中世における記録の上では中将棋の方が主流だが、小将棋の駒も多く発見されており、実際には小将棋も盛んに行われていたようである37。公卿や僧侶の間では中将棋が、武士や町人の間では小将棋の方が愛好されていたとも考えられ、このため小将棋が主流となり、将棋として認知されたと考えることができる38。また、前述したように「駒の再使用ルール」により、小将棋がゲームとして複雑性を持ち、中将棋より面白いものとなったこともあるだろう。こうして、小将棋が将棋として主流となり、家元制度のもとで、一層の発展を遂げることになった。

 また、家元制度の持っていた意味も大きいだろう。この家元制度では、家元家の当主が名人の位に就き、この名人を基準にして、将棋師39・将棋愛好者の序列が行われるとともに、家元家には実力に応じて彼らに免状を発行する権利が与えられるなど、幕府の庇護下で権威を持った家元を頂点として将棋の組織が確立されることになった40。また、家元家は将棋を専業として、日々研鑚することが求められ、その成果を示すため、年一回江戸城において将軍の前で将棋を披露すること(御城将棋)や名人位に就任する際には詰め将棋を献上することが求められた41。このことは、将棋の技術向上に大変役立ったといえ、結果として、将棋のゲームとしての可能性を広げることになった。

 また、江戸時代に入り、戦乱が収まり、社会が安定したこともあり、将棋は次第に庶民にも浸透していった42。この時代には多くの愛好者が存在しており、盛んに将棋が指されていた43。このことは、狂歌などに歌われたり、数多くの愛好者の記録や有段者の名簿が存在しているなどの記録からも窺い知ることができる44。また、将棋の普及には、家元だけでなく、各地を放浪し、賭け将棋によって生計を立てていた将棋師の役割も大きかった45。もっとも時として、将棋は本業の妨げになったり、賭けの対象となるため禁止されることもあった46。しかし、これも裏を返せば、禁止されるほど流行していたということができよう。また、将棋は賭けの対象として用いられたがゆえに広く普及し、人々の実力向上への意欲をかきたてることにもなった47。このように江戸時代に将棋は庶民も含めて浸透し、遊びとして定着することとなったのである。

 このように定着した将棋だが、明治維新によって新たな転機を迎える。新しく成立した明治政府は家元制度を継承せず、将棋の家元家は保護を受けられなくなってしまった48。また、すでに全国に将棋は普及しており、幕府の権威を使って、将棋を普及する家元の存在は必要なくなっていたこともあって、旧家元の存在は次第に希薄なものとなり、家元の家系からのみ選ばれた名人には家元家とは無関係の小野五平が就き、家元制度は完全に崩壊した49。このことによって、将棋は封建的な束縛から解き放たれ、自由に将棋の普及ができるようになった50。そのため、家元制の崩壊は、将棋の普及にはかえってプラスとなり、人々へと将棋は広まっていった51

 その普及に大きく役立ったのは新聞の存在であった。明治期に登場した新たな産業として登場した新聞は、社会の動向を報道して、人々に多くの話題を提供した52。そのなかで、1898年に『万朝報』が、ついで『時事新報』が将棋の棋譜を掲載し、愛好者達の関心をさらに高めることになった53。そして、将棋は新聞によって広く関心を集め、将棋愛好者の存在が将棋の記事をより充実したものにした54。また、新聞社の主導によって、将棋師の小集団がいくつか形成された55。ただ、これらの集団は互いに競い合い、離合集散を繰り返していた56。しかし、そのことがかえって、将棋の普及に一役買うことになったと言えよう57。そして、大正期に入って、いくつかに分かれていた将棋界を統一しようという気運が高まってきた58。その動きの中で4つの団体が集まって、大正13年(1924年)に東京将棋連盟が結成された。その後、分裂や再統合を経て、昭和11年(1936年)に現在の日本将棋連盟の全身である将棋大成会が結成され、将棋界はおおむね統合されることになるのである59

 また、昭和10年(1935年)には将棋界にとって重要な出来事が起こっている。当時の名人の地位にあった13世名人の関根金次郎が引退を表明し、それまで一度就位したら終世その地位にあることとなっていた名人の地位が将棋の実力によって選ばれることになった60。その結果、名人戦が開かれ、初代名人には木村義雄がなった61。その後も実力による名人戦が定期的に開かれた62。戦時中・戦後の混乱期の中断を経て、昭和21年から名人戦が再開され、将棋界の活動が再開される63。この間に将棋大成会は、昭和21年に株式会社日本将棋連盟、24年に社団法人日本将棋連盟に改組し、現在の日本将棋連盟が完成することになった64。そして、将棋連盟は、主要な報道機関と棋戦の契約を結び、次第に財政基盤を確立していった65。そして、現在では、7つのタイトル戦といくつかの棋戦を持つに至っているのである66